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つぶやき

子供のしつけに体罰は必要と考える人、どうやってしつけをすればいいかわからない人へ。「体罰とはなにか」をぜひ考えてみてください

Hello world!
あなたの心のおとなりさん、ニャムレット(@nyamletblog)です。

この日本で子育てするということについて、ふと考えました。
私と家族は外国で生活できるスキルがないので「日本以外で子育て」という選択肢はそもそもないのですが(;^_^A

多発する児童虐待、それを受ける形での「親による体罰禁止を盛った改正児童虐待防止法と改正児童福祉法」が2020年4月に施行されます。
よかったという思いと、やっとかという思いが交錯するなか、この法施行にあたり「体罰必要論」を唱える日本人が出没しているという話も見聞きし、愕然としました。
「体罰はしつけ。ある程度は必要」と言うような人はいったいどんな人なのか、なぜ体罰でないと子供に言うことを聞かせられないと考えるのか、体罰や虐待によらない「しつけ」とはどんなものか、あれこれ考えてみました。

いままで保育園でよその家庭といっさいの関りを持たずに暮らしてきたニャム家ですが、小学校へ上がるとPTAという悪の組織に絡めとられ(笑)保護者や子供どうしで関わることが避けられなくなりました。
私は子供ひとりで外を歩かせないと決めているため(個人的な方針です)、朝はニャ娘と一緒に学校まで行ってから出勤し、帰りは学童へ祖母がお迎えに行ってくれています。
そんなわけで、ほぼ毎日学校へ行くことになります。

PTA活動のほかに絵本の読み聞かせもしており、児童と関わることはほかの保護者と比べて多いほうだと思っています。
毎朝クラスの窓辺に立つと子供たちがワーッと寄ってきてくれて、「オレの話を聞いてくれ」「私のこと見て見て」と大騒ぎになります。
「オレさー、昨日サッカーの試合で勝ったんだぜ」
「私昨日、自転車の練習して乗れるようになったの」
みんな自分の自慢話を聞いてほしくて、押し合いへし合いしながら窓辺に並びます。
まだ1年生なので幼さもありますが、本当にかわいいなと思います。

こうしてクラスの子供たちとだいたい仲良くなってきたある日、いつも「聞いて聞いて」と一番に寄ってきてくれる女の子から、こんなことを聞かれました。

「ニャ娘ちゃんのお母さんは、ニャ娘ちゃんを怒ること、ある?」

我が家のニャ娘は天真爛漫で殿様のように尊大な態度ですが(笑)、他人に迷惑をかけたりいやなことをすることはないので、怒ることはほとんどありません。
そこで
「うーん、あんまり怒ることはないかなぁ」
と、深く考えずに答えました。
するとその女の子はこう言いました。

「ニャ娘ちゃんいいな。うちはお父さんがぶったり蹴ったりするから。あとお母さんも私の顔をたたいたりするし」

えーーーー(>_<)
と思ったものの、もちろんその子に向かって両親を批判するわけにもいかず、「それはいやだったねぇ、痛いのはいやだよねぇ」と言うのがやっとでした。
ぶたなくても言葉で言えばわかるよ、ダメなことがあったらぶたないで言葉で言ってね、って言ってみたらいいかもしれないよ、と話してみましたが、1年生では親に意見するのは難しいだろうなと思います。

この記事をお読みくださっている方のなかには、「自分のしていることは虐待なのか、どこまでがしつけでどこからが体罰なのか」という検索でたどり着かれた方もいらっしゃるかもしれません。
厚生労働省が作成した「体罰等によらない子育ての推進に関する検討会」の資料にも体罰の例が記されていますが、どうにもあいまいで「体罰」の線引きをはっきりと示しているとは思えませんでした。

体罰が法的に全面禁止になると、体罰をした保護者は罰せられるのか、心配する人も多くいるのではないでしょうか。
特定非営利活動法人「子どもすこやかサポートネット」ではこのように解説していました。

Q.体罰を法的に禁止すると親が刑罰を受けるようになるのでしょうか。
A.いいえ。体罰の法的禁止は、啓発・支援を強化しますが、刑罰を強化しません。

体罰の法的全面禁止、よくある質問への回答
「子どもの権利を擁護・推進する 子どもすこやかサポートネット」
体罰の法的禁止について具体的に解説しています

刑罰に処せられることはないとはいえ、国が「体罰は全面禁止する」と法制化したということは、「体罰は絶対にいけない」という強いメッセージを全国民に発したということです。

私は精神医学や心理学の専門知識などいっさいありませんが、体罰に関してははっきりとした意思があります。
「対話という方法以外のしつけは体罰であり、子供を恐怖で支配するための方法である」と。
頭じゃなくておしりなら叩いてもいいとか、手の甲を軽くつねる程度ならいいとか、そんなわけがありません。
子供に行動の善悪を理解させるために対話するのは「言葉をもって互いに理解しあえる」相手だからであり、それができないから身体を罰するのは「言葉の通じない相手」と判断しているからです。
「言葉が通じない」というのは、人間として相手を認めていないことと同義であり、通じないから身体に加害するというのは家畜や動物に対するやりかたです。
体罰というのは、親が子供を「人間と認めていない」ということだと、私はそう思っています。

「言葉ではわからないような小さな子供にはしかたない」、そう言う人もいますよね。
言葉で説明してもわからないというのは、1歳や2歳、出来事によっては未就学児が該当するでしょうか。
そんな小さな子供に、世の中のルールなんかわかるわけがないんです。
だから、わからせようとするだけ無駄なんです。
「だめだよ」と言って、サッと抱き上げてその場を離れるとか、物理的にその事象から切り離すことが有用だと思います。
まだうまくしゃべれないような小さな子に、ガミガミとお説教しているお母さんを街で見かけることがありますが、やっても無駄なことをやればやるほど、お互い消耗するだけです。
そこからはなにも生まれないばかりか、互いにいやな気持ちがどんどん積み重なっていくので、無駄なことはいますぐにきっぱりとやめましょう。
大丈夫です、そのうちにわかってくれるときが絶対に訪れます。

我が家のニャ娘は反抗期が1歳半で、それはそれは大変でした。
なんでもかんでも「やりたい、やりたい」。
当時の口ぐせは「じぶん、じぶん」でした。
「じぶんでやる!」ということですね。
1ミリでも気に入らないことがあれば、どこにいてもその場でひっくり返って泣き叫びます。
「じぶん、じぶん」で、やってみてうまくできないと即ギレ。
よくあるシチュエーションは、コンビニで買い物をするときにお金を払うのを「じぶん!」と言ってやりたがり、店員さんとやりとりのタイミングが合わず私が店員さんに謝りながら対応を代わるとその場にひっくり返って号泣、というやつでした。
周囲にとにかく頭を下げながらニャ娘の手を引き、その場を離れてからまたひっくり返ってギャン泣きするニャ娘のことを無の境地で見守る日々でした。笑
実際には「無の境地」ではなく、心が疲弊しきってシャットダウンしたような感じでしたが。
ああ・・・子供と一緒にいるのはつらいな、とこのときは毎日思っていました。

ありがたいことに、ニャ娘は2歳ごろになると格段に言葉が増えてきて、言葉を工夫しながら伝えればなんとか理解できるということが増えていきました。
互いに探りながらでも、言葉で伝え合うことができるようになれば、そこからやっと「対話」が可能になります。
言葉が増えれば今度は「どうして、なんで」攻撃が始まるわけですが、相手に言葉で伝えられるというのは本当に大きな進歩を感じました。

学校公開のときに、「お父さんに蹴られる」と言っていた女の子のご両親をお見かけしました。
失礼と思いながらも、目がそのご両親を追ってしまいました。
子供を蹴ったり叩いたりする親は、いったいどんな人なんだろうという思いが頭からずっと離れませんでした。
女の子のご両親はとても静かな雰囲気で、そこにいることにしばらく気づかないほどでした。
授業で工作をしており、保護者と一緒に作るという内容だったのですが、女の子のそばに大人がいなかったので「一緒にやろうか」と私がおせっかいを焼いていると、かなり経ってからそっと男性が彼女の横にやってきて手伝い始めました。
後ろを見ると、小さな男の子を連れた女性もそばにいました。
この人たちが、彼女を蹴ったりぶったりするご両親なんだ・・・。
どうしても、そう思ってしまいました。
いつも私に元気いっぱい話しかけてくれて、大きな声で笑うクラスメイトの女の子は、お父さんお母さんと一緒に言葉少なに作業していました。

これを読んで「そんなに強くやっているわけではないんじゃない?」とか「しょっちゅうというわけではないんじゃないか」と思う人もいるでしょう。
強さや頻度ではなく、子供の身体を加害することに問題があります。
前述しましたが、大人が子供に体罰を与えるのは「簡単に支配・コントロールできるから」です。
「支配なんて大げさな」と思われるかもしれませんが、力によって他者の考えや行動を制限しようとするのは支配です。
「この程度なら」という、小さな暴力の芽は、いつどんな時代にもありました。
そしてそれが少しずつ大きくなり、アルカイーダやIS、過去に遡れば連合赤軍による「あさま山荘事件」などの事象へと発展していきます。
暴力は簡単で手軽で、しかも効果抜群なのです。
狡猾な者ほど、積極的に暴力を用いた支配を行います。
暴力は相手の人権を奪い、服従させるのに絶大な効果を発するからです。

子供が言うことをきかなくて、ついたたいたり大声で怒鳴ってしまうお父さん、お母さん、もしこの記事を読んでいたら、今日からはぜひこのことについて考えてみてください。
(ちなみに怒鳴ったり罵倒することも心理的虐待にあたります)
あなたの大切な子供を、どんなふうに育てたいのかということについて、じっくりと考えてみてください。
子供に言うことをきかせたいのは、なぜでしょうか。
子供のしつけとは、なんのために行うのでしょうか。
子供が騒いだり、じっとしていなかったりすることは、まわりに迷惑がかかると思う日本人は多くいます。
だから子供を静かにさせようとする保護者も、静かにしろと求める他人も、たくさんいます。
でも、考えてみてください。
あなたの大切な小さい子は、生まれてからたったの数年しか人間をやっていないんです。
たった数年しか人間として生きていないのに、あなたと同じようにふるまうことができたら、ちょっとそれはおかしいでしょう。
子供は見るもの、聞くこと、すべてが新しく珍しく驚きに満ちています。
なにもかもに心を奪われ、あっちにもこっちにも興味を惹かれ、落ち着いてじっとなんてしていられるわけがありません。
もしも、そこらじゅうに宝石やお金が落ちていたとしたら、あなたはどうしますか?
わあっと驚き、あっちこっちへ動き回って拾い集めようとするでしょう。
子供にとって世界とは、そのようなものなのだろうと私は思っています。
私もそこらじゅうに宝石が落ちていたら、なりふり構わずはいつくばって拾い集めると思います。笑
大丈夫、いつか子供はいいことと悪いことを理解するようになります。
脅したり抑圧したりしなくても、そのうちにちゃんとできるようになります。
いきなりできるようになる子なんていません。
子供が少しずつ成長するのを、一緒にゆっくり見守ってあげてください。

子供に言うことをきかせるためにたたいてしまうのはなぜかというと、前述したとおり「簡単だから」です。
毎日家事や仕事に加えて育児を行っていると、忙しさでストレスがたまっていきますよね。
やらなければいけないことが山積みになっているなかで、子供が騒いだりぐずぐず言っていたら、イライラするのは当たり前です。
できるだけ簡単に早く、子供を黙らせたいと思うのも当然だろうと思います。
お母さんの場合だと、そこに夫の不満も加わることがあるかもしれません。
自分は好きなときに会社に行って、好きなものを飲んだり食べたりして、好きなときに帰ってきて、思いついたように子供のしつけについて言及されたりしたら、ほんっとうに腹が立ちますよね・・・
自分の時間もなく、余裕もなく、過程は見られずに結果だけ掃除や洗濯、料理の質を求められ、しかも子供は「いい子」に育てろと言われたら、お母さんは気が狂ってしまいます。
だから、自分の気が狂わないように、できるだけ簡単で早い方法として、子供に手を上げてしまうというのは想像がつきます。
そして、ぶったり怒鳴ったりすれば子供が簡単に「言うことをきく」とわかると、次第に罪悪感は薄れ、日常的になっていくのだろうと思います。
また、悲しく恐ろしいことですが、自分より弱いものを力によって支配することには嗜虐的な快楽が伴います。
たたいたり怒鳴ったりすることでストレスが発散され、激高した状態でそれを続けるうちに脳が快楽と勘違いし、エスカレートしていくのではないかと個人的には思っています。

では、体罰や虐待を受けた子供はその後どうなっていくのか、考えたことはありますか?
体罰や虐待を受けた子供の脳がどのように変化するのかについて詳しく記された本があります。

子どもの脳を傷つける親たち
友田明美:著
NHK出版新書
虐待、マルトリートメントによって子供の脳が変形している現実。
衝撃の研究結果をもとに子供との適切な関わり方を紹介

あなたの大切な宝物である子供を、そんなふうに傷つけたいでしょうか。
傷つけているつもりがなくても、子供は確実に傷ついています。
ここで、問題の入口に立ち返ってみましょう。
なぜ子供をたたいたり怒鳴ったりしていたのか?
「子供のしつけのため」だったのではないでしょうか。
しつけをするのは、「いい子」になってほしいからでしょうか。
しかし、体罰や虐待によって育てられた子供は、保護者が期待するような人物には育ちません。
それではいったい、なんのために子供をたたいたり怒鳴ったりしていたのでしょう。

なんのために。

なんのために?

そのことについて、すべての保護者は、しっかりと考えてみなければなりません。

どうか、思い出してみてほしいんです。
小さな赤ちゃんが生まれたときのこと、初めてギュッとしがみついてくれたときのこと、少しずつ大きくなって、歩くようになり、おしゃべりをするようになったときのこと。
そんな昔のことでなくても、いくつも思い出せるはずです。
小さな手をつないで一緒に歩いたり、おいしいおやつを一緒に食べたり、公園で一緒に遊んだことを。
あなたの子供が世界中の誰よりもかわいく、尊く、大切であるかということを。
子供にとってあなたは、世界中の誰よりも大切な、大好きな人なのだということを。

いままで体罰で子供に言うことをきかせてきたから、どうやってしつけをしたらいいかわからないという方もいるかもしれません。
これは私の個人的な考えですが、まず、「しつけ」というのは必要最低限でいいと思っています。
あいさつ、靴を揃えること、TPO(時と所と場合)による振る舞いなど、社会に出て恥ずかしい思いをしないように、他者に不快感を与えないことを教えるのが「しつけ」だと私は考えています。
そしてそれは、「自分が得をすること」でもあります。
損得がすべてではありませんが、やはり他人からはよく思われたほうが生きていく上でメリットが大きいです。
元気よくあいさつする子供は、大人からのウケが抜群にいいです。
ものすごくかわいがられます。
これは私自身の子供時代もそうでしたし、ニャ娘の現在を見ていてもそう思います。
ニャ娘はものすごい声の大きい子なので、ご近所の方に会ったときや、バスを降りるときなど「こんにちは!」「ありがとうございました!」と大音量であいさつします。
すると、100%の確率で「えらいね」「かわいいわね」「いい子だね」とほめられます。
私自身はわりと冷めた子供で、ていねいな言葉遣いで大人に話しかければほめられるということを知っていて、意図的にそうしていました。
そしてそれは、母から「大人には敬語を使いなさい」としつけられていたことが大いに役立ったのでした。

子供に物事を教えるときには、なんでもない時に、穏やかな気持ちで対話することが効果的だと思います。
スーパーで騒いでいたり、突然駆け出したりしたときについ怒鳴ったりたたいたりしてしまいがちですが、そうなる前に教えておくんです。
「スーパーに買い物に行くけど、お店の中に入ったら静かにしていられるかな」
「今日は卵と野菜とウインナーを買いに行くから、ほかのものは買わないよ」
「もしほしいものを見つけても、それを買うかどうか、おうちに帰ってから相談しようね」
「約束できたら一緒に行こうか」
こんなふうに、事前に「やってはいけないこと」を教えておきます。
その場で突然「ダメ!」と言われても、子供には理解できません。
また、たくさんの人がいて、騒がしい場所では、子供は落ち着いて話を聞くことができません。

私はよく、家でごはんを食べているときや、ちょっとしたヒマな時間にニャ娘と対話をしました。
「大人ってさ、いい子にしなさい!とか、いい加減にしなさい!とか言うけど、『いい子』とか『いい加減』ってなんだろうね」
と私がたずねると、
「じっとして静かにしてるのが『いい子』なんでしょ? でもさ、じっとして静かにしててもこっそり悪いことしてる子もいるかもしれないよね」
と回答が戻ってきたりします。
「だって心の中は見えないじゃん」
なんて大人びたことも言ったりします。
こんな禅問答みたいな対話でなくてもいいんですが笑、なにげない時間にあいさつの大切さや、外出時の振る舞いなどについて話し、子供自身にも考えさせることで理解が深まるのではないかと思います。
そして、それができなかったときにはたたいたり怒鳴ったりするのではなく、「どうしたのかな、約束したはずだよね」とか「あれっ、おかしいね、どうしてそんなことしちゃったのかな」と冷静に違和感を伝えることで、子供は自分の行動が歓迎されていないとじゅうぶん察します。

大人が子供に接するなかで、これは大目に見てあげてほしいと個人的に思うのが、「うっかり」です。
コップを倒して飲み物をこぼしてしまったり、手を滑らせて物を落としてしまうということが子供には非常に多くあります。
これがわざとだとしたら問題は別ですが、子供がいろいろうまくできないのは当たり前のことです。
こうなった場合、こぼしたことを怒るのではなく、こぼすことを未然に防げなかった自分に非があると考えるようにすると、子供への怒りが起きません。
私はやや潔癖なところがあり、ニャ娘が食べ物をこぼしたり服を汚すとかなりイラっとするのですが、「あああ~キケンだよ~こぼすよぉ~」とミュージカル風に歌いながら注意を促したり、汚した服を「いますぐ洗濯機へ突入だ!あと5秒で脱がないと爆発するぞ!」とかよくわからないシチュエーションを発動させて、笑いを取りながら片づけるようにしています。
子供の意図しない過失を責めると、子供は自信を喪失していきます。
そして、なにがいけないことなのかわからないまま、大人の機嫌だけを伺うようになっていきます。

「なぜ怒られたのか」がわからないのに、反論もできないというのは大変つらいことです。
子供は大人がこわいので、理不尽な思いを抱えながら成長します。
そして、一番おそろしいのは、いつか「大人はこわくない」と子供が気づくときです。
いままで力でねじ伏せていた子供が、大人よりも強くなったら、やはり力で大人をねじ伏せられると気づくでしょう。
そうなったとき、いままでたたいたり怒鳴ったりしたことがそっくりそのまま自分へ跳ね返ってくるかもしれない、あるいは暴力ではなく、親子としての関係が破綻するという形になるかもしれない。
体罰を必要だと唱える人は、そういった覚悟を持つべきだろうと思います。

子供を育てることは、時間もかかるし大変な労働だと思います。
でも、育児こそ、時間と手間をじっくりかけてあげてください。
育児よりも大切なことが、生活のなかであるでしょうか。
私はニャ娘がハイハイするまでは、「ほこりで人間は死なない」と思って掃除はあきらめました。
(ハイハイをするようになってからは必死で掃除しましたけど笑)
そしてニャ娘が小学生になったいまは、「化粧がてきとうでも死なない」と思って暮らしています。笑
同じクラスの女の子は、「ニャ娘ちゃんのお母さんはどうしてそんなに優しいの?」としょっちゅう言います。
私は別段優しい親でもないと思っています。
でも、彼女から見た「ニャ娘ちゃんのお母さん」は、いつもおもしろいことを言って一緒に笑ってくれる優しい人なのでしょう。
「ニャ娘ちゃんのお母さんが私のお母さんだったらよかった」と言われたとき、とても胸が痛みました。
彼女のご両親に、もっと子供の声に耳を傾けてあげてと言いたいです。

最後に、国連で採択された「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」をご紹介します。
日本では1994年に批准されました。
簡単に紹介すると、子供の権利は大きく分けて下記の4つになります。

・生きる権利
・育つ権利
・守られる権利
・参加する権利

余談というか完全な蛇足ですが、日本のある政党ではこのようなことが大真面目に論じられていることも事実です。

平成12年7月7日(金)教育改革国民会議第1分科会(第4回)資料
一人一人が取り組む人間性教育の具体策(委員発言の概要)

この資料のなかで
・子どもを厳しく「飼い馴らす」必要があることを国民にアピールして覚悟してもらう
・教壇を復活させることなどにより、教師の人格的権威の確立させること
・遠足でバスを使わせない、お寺で3~5時間座らせる等の「我慢の教育」をする
・「ここで時代が変わった」「変わらないと日本が滅びる」というようなことをアナウンスし、ショック療法を行う
・バーチャル・リアリティは悪であるということをハッキリと言う

(一部抜粋、原文ママ引用)
など、ぞっとするようなことが綴られています。
国政を担う大人がこんなことを言っているような国では、「子どもの権利」が理解されるのは難しいでしょうね・・・