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BOOK

「誤報」の事実を追って調査を続ける記者たちが目にしたものは、「悪意」という名の真実であった。元新聞記者が鋭く描く社会派小説の金字塔

歪んだ波紋
塩田武士:著
講談社

あらすじ

マスメディアが出してしまった「誤報」、その裏側には予想もしなかった「真実」が潜んでいたーー。
自らも新聞記者であった著者が、「新聞」という巨大メディアの抱える闇と、その巨躯ゆえ時代の変遷に追随できないというジレンマを切れ味鋭く描き出した“ノンフィクションに限りなく近いフィクション”。

ひき逃げ犯、悪質サラ金業者、盗撮の常習犯、テレビ局のねつ造問題・・・
ある者は事件を追い、またある者は誤報を見つけ、真相へと近づいた新聞記者たちはしかし、その「事実」に違和感をおぼえる。
「事実」が捻じ曲げられ、その歪みを凝視したところに、想像を超えた「真実」が騙し絵のように見えてくるのだ。
「誤報」はなぜ訂正されなかったのか?
それは単なる「間違い」ではなく、悪意という名の蠢動であった・・・

短編それぞれが予想を覆す展開で読者を翻弄し、さらに読み進めるうちに個々の物語が大きなひとつの波となり、クライマックスへと一気に押し流されていく。
物語の終わりに読者が見るものは、「目に映るものだけを信じるな」という痛烈な警告である。
フィクションでありながら突き刺すようなリアリティに圧倒される、社会派小説の金字塔。

ニャム評

久々に物語にのめり込むようにして読んだ小説です。
物語を追っているうちになにか別の予感みたいなものが頭の中に立ち上がってきて、その予感が確信となった瞬間、これまで見ていたものの形が崩れ去っていくような衝撃をおぼえます。

「黒い依頼」「共犯者」「ゼロの影」「Dの微笑」そして「歪んだ波紋」の五編による短編連作になっており、それぞれの主人公が次の走者へバトンを渡すように物語がつながっていきます。
新聞とは「正確な情報を伝える義務」を負ったメディアです。
その新聞の誤報記事を見つけてしまった新聞記者が「誤報」を調べていくうちに、ただの間違いではなかったという「真実」に突き当たる瞬間、まるで騙し絵のトリックに気づいたような混乱と衝撃が読者を襲います。
物語を読み進めるには、当然ですが物語の土台であるストーリーが「正しい」ことが大前提となります。
しかし、いままで「正しい」と信じて読み進めていたストーリーが嘘だったとしたら?
その瞬間、読者は目の前の風景が歪むような錯覚に陥るのです。

さらに、主人公たちが見つめる先には、あるひとりの人物が浮かび上がってきます。
日本経済のバブル現象に大きく関与した謎の人物とはいったい何者なのか。
彼を追い、見えてきたものは、どこまでが「真実」なのか。

連作短編集として高い完成度を誇るフィクション小説であるとともに、新聞というレガシーメディアの凋落ぶりを鋭い筆致で描いたノンフィクションとしても非常に優れていると思います。
三流雑誌ながら私も記者の端くれとして就労していた経験があるので、この物語がただの娯楽小説とはとても思えませんでした。

紙媒体そのものの存在意義がなくなりつつあり、印刷することで糧を得ていた出版事業はその巨体を持て余し、転身することもできず次世代という沼にはまって身動きが取れずにいる。
マンモスが温暖化に適応できず絶滅したように、出版業界もまた滅びる定めなのでしょうか。
それを受け入れられず、適応もできずに間違ったやり方でもがく様は、見ていて胸が痛む思いもします。

ほとんどの読書家がそうであるように、私もやはり紙の読み物がいまでも好きで、ページの端を折るドッグイヤーをつけながら読み進めるのは至福のひとときです。
しかしそれはコーヒー豆を手で挽くのと同じことで、行為そのものを楽しむという愛好家の作法みたいなものなのかもしれません。
時代に逆らうつもりもありませんが、一抹のさみしさは拭えない思いがします。

このことを本書の主人公たちもぼやいています。

しかし、いくら取材を重ねて社会問題を提起しても、PVでは不倫に勝てないのだ。(中略)
以前、日本人が先進国の中で最も軟派記事を好むという、海外の研究発表を読んだことがある。政治への参加意識の低さや玉虫色の決着を好む国民性は今に始まったことではないが、最近ではいい年をした大人ですら「緩さ」や「楽しさ」を追い求めている。心地のいい情報に包まれやすい現代ほど、真っ当なジャーナリズムが求められる時代はない、と三反園は思う。
だが、理想を実現するには目先の軟派記事で母体を大きくするしかないのだ。

「さて、親父の機嫌取りでもしよっか」
げんなりした様子で三反園が言うと、丸岡も口を尖らせて首を横に振った。
親父とは「ヤフー」を表す隠語だ。今や日本で最大級の影響力を誇り、ウェブニュース媒体は 「ヤフーニュース」に命運を握られていると言ってもいい。「ファクト・ジャーナル」の読者の三分の一は、自社サイトではなく「ヤフーニュース」に配信した記事を読んでいる。他のネットメディアも似たようなものだろう。「ヤフーニュース」の担当者にせっせとメールを送り、冗談のような値段で記事を買い叩かれ、それでも顧客を握られている以上しがみつくしかない。
出版不況と言われるが、とりわけ雑誌の市場規模の縮小は危機的だ。名のある雑誌でも紙のみで生き残るのは至難の業で、各社の編集部は「ヤフー」が好む、いや、その先にいる大衆が望む「サクッと疲れない」記事を量産する。

紙媒体がウェブ媒体と比べて上質であるとは一概に言えませんが、その傾向が強いのには理由があります。
紙に印刷し配布するには多大な手間とコストがかかります。
また、一度印刷したものは修正することができません。
そのため、紙媒体は印刷するまでに幾重にもチェックが入り、その過程で内容と文体は研ぎ澄まされていきます。
一方のウェブ媒体は誰でもアップロード可能、しかもいつでもすぐに消去・更新が可能であり、その手軽さと質の低さが比例するのは容易に想像できます。

そしてなにより悲しく残念なこととして、世間一般ではそのような質の低い記事が好まれるという現実があります。
読書家がページの端を折るのは、心に刻むべき言葉をそこに見つけたからです。
しかし、膨大な文字の海から光る宝石の粒を見つけ出すのは容易ではありません。
容易ではないからこそ喜びも大きいのですが、いまやほとんどの人はその喜びを見つけ出すことよりも、ヒマな時間を潰すために他人の不幸を1分で知る記事のほうが有益と位置づけています。
我が家の通う小学校では読書が強く推奨されており、授業の前には「朝読書」の時間が設けられ、月に一度ボランティアがすべてのクラスを訪れて読み聞かせをしています。
読書がこれほど教育の場で重んじられるのは、しかし読書家にしかその理由はわからないような気もします。
本を読むという豊かな行為が人間に与える影響は、知能指数の向上とか文章問題の読解力とか、そういった数値的なこととは根本的に違うと私は感じています。
共感力とか知見を広げるとかそういうこともあるでしょうが、読書のもっとも優れた特長は「ここではない違う世界へ飛び込める」ことではないかと個人的には思います。
私は人間関係を築くのが苦手で、多数の人とのおしゃべりや集団行動がとても苦手な子供でした(それは大人になったいまも変わりませんが)。
中学生まではクラスに友人を作り居場所をなんとか確保していましたが、高校生になると気の合う友人が教室にまったくおらず、部活のために三年間通っていました。
教室で過ごす時間が苦痛で、そんな私の逃げ場は本の中でした。
どこにいても、本を開けばその世界へすぐに逃げ込むことができる。
そこには魔法やドラゴンや殺人事件や埋蔵金などがあって、かっこいい男の子やクールな女の子や武士やスポーツ選手や音楽家たちが友だちでした。
逆説的ですが、私はその本の世界で友情や約束、信頼の尊さと大切さを学び、人間がいかに生きるべきかという哲学を追及することができたのです。

本を読むということは、勉強のためではありません。
読書は趣味です。
豊かで価値のある時間を過ごすことのできる贅沢な趣味なのです。
この素晴らしい世界の扉を開き、飛び込むための一歩を踏み出す手伝いができたら幸せだと思い、今日も私はちまちまと書評を書き、子供たちに読み聞かせをしています。