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BOOK

おしゃれと無縁に生きるというのは「ボサボサの頭でヨレヨレの服を着る」という意味ではない。真実を的確に切り取る痛快エッセイ

おしゃれと無縁に生きる
村上龍
幻冬舎文庫

あらすじ

2015年に幻冬舎から刊行された書き下ろしエッセイに雑誌「GOETHE」連載分を追加した文庫版。
政治経済、若者、IT、スポーツ、企業、家族など幅広い話題に加え、著者自身のプライベートも織り込みながら、村上龍の視点で世の中の事象を鋭く考察する。

ニャム評

龍さんの作品が大好きですが、エッセイも好きです。
案外おちゃめでかわいらしい人なんだなと思わせる文面がところどころに現れて、くすりと笑ってしまうんですね。
エッセイはその人自身を映す鏡のようなもので、物事に対してどのような思想を持っているのかが如実に表れます。
そういった意味で、龍さんは世の中の事象に対して常にぶれない、一貫した視点を持った人です。
それがわかりやすく示されているいくつかの文を引用すると

「今年(2012年)、個人的なことで恐縮だが、わたしは還暦を迎える。特別な感慨はないが、率直に歳を取ったなと感じる。(中略)
精神力も体力も間違いなく劣化している。「まだまだお若いですよ」などと言われても全然うれしくない。心身の劣化は、誰よりもよく自分自身がわかっている。歳を取るにしたがってどんどん元気になっていく生物は地球上には存在しない。
ただし、情報量と人的ネットワークは、若いころよりも増えている。逆に言うと、情報量と人的ネットワークの向上がない加齢は、救いようがないということだ。」

(新年にあたって)

「たとえば新政権が誕生し、新内閣が発足すると、大手既成メディアは「新内閣に何を期待しますか」と、街頭で人々にインタビューしたり、アンケートをとったりする。だが、本来政党は選挙において「公約」「マニフェスト」を国民に示し、支持を訴えて、今(2012年)のような二大政党制の場合、勝利したほうが政権を担当する。期待も何も、「わが党は、政権を取ったらこれらの政策を実施します」と明言しているわけだから、本当に実現するかじっと監視していればそれで済む。
どうして「期待」という言葉が出てくるのか、わたしはよくわからない。」

(日本人の政治意識)

「『日本語の乱れ』は、常に話題になる。ずいぶん昔だが『美しい日本語を守りたい』とジョークのようなことを恥ずかしげもなく公言した新人作家もいた。
考えてみれば当たり前のことだが、日本語自体が乱れるわけではない。誤った組み合わせで用いて、その機能を阻害し、日本語という言語体系を堕落させるのは、それを使う人である。日本語そのものは、広義のツールであり、ニュートラルなものだ。だから、守られるべきものでもない。」

(日本語の乱れ)

「『貧しい』ということは、生活環境が不潔ということでもある。アルミサッシと網戸が普及する前は、夏には蚊帳を使っていた。蚊帳は、奈良時代からあり、江戸時代には庶民も使っていたそうだ。高度経済成長がはじまって間もないころまで、わたしたちは江戸時代とあまり変わらない生活をしていたのである。毎年夏休みが終わる時期に、日本脳炎で何人か同じ学校の生徒が死んだ。
そんな昔が、いい時代であるわけがない。だから年長者が『昔はよかった』と言っても信用してはいけない。すべて嘘だ。だいいち、それほど昔がよかったのなら、変化を望まず、そのままにしておけばよかったのだ。」

(「昔はよかった」のか?)

私はこのバッサリ斬る「龍さん節」が大好きです(^^♪
取り付く島もない、憶測や希望的観測や私見をいっさい排除した正論が読む人にクリアな視界を与えてくれます。
龍さんのエッセイを読むと、ワイドショーやバラエティで得意げに語っているオジサンやオバサンの言葉が鼻についてしかたありません。
坂〇忍とか、スマートじゃないな、クレバーじゃないな、と思います。
もうあの人がテレビに映っているだけですぐテレビ消します。
大嫌いなんで笑
ちなみにピロウズのさわおさんも彼が大嫌いだそうです笑
気が合うじゃないか。

表題の「おしゃれと無縁に生きる」というエッセイは、「忙しく働き充実した人生を送っている者はおしゃれなどしているひまがない」という、一見すると余裕のない人生のように見えますが、実際に語られていることは反対で、「第一線で活躍している人には迷いがない、軸がぶれない」ということです。
おしゃれと無縁に生きるというのはボサボサの頭でヨレヨレの服を着るという意味ではなく、自分が選択したフィールドで充実した活躍をしていれば、そのフィールドに合ったファッションがあり、それを選択すればよい、ということです。
この話で思い出したのが、GLAYのTAKUROくんです。
彼は雑誌の撮影のときにスタイリストが用意した服を着て、気に入った服は買い取るそうです。
つまり自分で買い物に行かなくても、自分にフィットしてセンスのいい服が手に入る。
龍さんの言う「おしゃれと無縁に生きる」ということは、そういうことなんだと思います。
例えとしておしゃれを挙げているだけで、人生において様々な取捨選択とはそういうことなのだろうと思います。
自分の行動や目標にぶれがなければ、必要なことも明確になる、ということです。
ただ、「行動や目標」をどのように選択すればよいか、現代ではそれがもっとも難しい問題でもあると思います。

たぶん20年、30年くらい前までの日本は「幸せ」とか「成功」とか「目標」のロールモデルが明確にあって、それはおそらくアメリカだと思うのですが、その模倣をしていればよかったわけです。
ハイブランドを身に着けるとか、一軒家を建てるとか、高級車を購入するとか、大企業に就職するとか、そういう型があって、そこに自分をはめた人が勝ちというわかりやすいルールのゲームが長い間行われていました。
その模倣はバブル崩壊とともに消え去り、しかしこれまで模倣だけしていればよかった日本人は、自分で取捨選択する、自分で考えるということに対応できず、抜け殻となった古いロールモデルをいまだに信奉しているように思えます。
日本史を振り返ってみても、古くは戦国時代から江戸時代、家制度(家長とか嫁とかいう古くさい制度がありました)のあった明治まで、強い支配者のもとで指示どおりに生きていくしかなかったわけです。
江戸時代に「私は旅籠を経営したい!」と夢見ても、生家が旅籠でなければ無理でしょうし、そもそも生まれた家柄によって人生がすべて定まっていて、職業選択の自由なんてものはありませんでした。

「自由」という概念のないコミューンを長い間形成してきた島国の人間に、いきなり「さああなたは自由です。好きなように生きていきなさい」と言っても途方に暮れるでしょう。
そしてそれが、バブル崩壊後数十年が経った現代に起きているひずみなのではと思います。
つまり、「自由」を基調とした「幸せ」や「成功」や「目標」のロールモデルが日本には存在しないということです。
だから現代の若者は、まったくの更地から人生を構築しなければならない。
しかも日本の経済は破綻寸前で、人口は減少し続け、人生の構築に有利な条件は年々失われています。
そういう意味において、現代の若者は大変だろうなと思ったりします。
かく言う私もそこまでおばあちゃんではなく笑、しかも成人を目前にバブルが崩壊する様を見てきた世代なので、老後の希望的観測みたいなものはありません。
正直言って、年金でホクホクしている最後の世代を苦々しい思いで見ていたりします。
景気のいい話が全部目の前で消えていきましたからね。
そう考えると、私たちみたいに中途半端なロールモデルを見てきた世代よりも、前例も慣習もない現代の若者のほうがいいのかもしれませんね。
退廃したロールモデルを目指すこともなく、自身の現状にがっかりしたり無念に思うこともないでしょうから。

いまの若い人は賢くて現実をよく見ている人が多いと個人的には感じます。
でもその一方、ネットには一瞬の小金を稼いだことで選民意識丸出しになっているみすぼらしい若者を多く見かけます。
他人と比較することの虚しさみたいなことをわかっている世代なのかなと思っていましたが、案外我々中年よりもマウンティングとか階級的な位置づけを顕著にやる人とか、承認欲求におぼれている人とか、やけに目につくなぁと感じたりもします。
「評価されたい」と思う場が学校や家庭という限定された場所から、インターネットの登場によっていきなり世界中になってしまったミレニアム世代の人たちは、目立ってなんぼみたいな感覚があるのでしょうか。
年寄りの「俺が若かったころは」自慢もうんざりですが、若い人が良識や経験が未熟なまま他者をけなしているのも見苦しいものです。

話がだいぶ横道にそれましたが。
立て板に水みたいな龍さんのバッサリ論のあとに、「しかし」という彼独自の視点がそれぞれのエッセイでつづられています。
私がとてもいいなと思ったエピソードを最後に引用します。

「『我慢』は、嫌いな言葉のワースト3に入る。(中略)
だが、わたしも我慢するときがある。コミュニケーションにおいてだ。どうにかして自分の気持ちや考えを伝えなければならないが、まだ伝わっていない。今も不快な思いをしていて傷ついてもいる。しかも今後も伝わるという保証などない、そんな場合でもわたしは我慢してコミュニケーションを続ける。絶対に切れたりしないし、あきらめもしない。たぶん『コミュニケーション』によって、これまでサバイバルしてきたのだろう。『これを我慢しないと生き延びることができない』。我慢に意味があるのはそういった場合だけだ。」

(我慢に利益はあるか)