Hello world!
あなたの心のおとなりさん、ニャムレット(@nyamletblog)です。
「子育ての意味」が若者にわかるだろうか、というブログを拝見しました。
ふむふむ、と非常に納得することの多い内容で面白かったです。
リスクやコストで人生をはかる人に「子育ての意味」は届くのだろうか
シロクマの屑籠-はてなブログ
上記ブログでは「資本主義、合理主義がデフォルト思考である若者がリスクやコストを頭だけで考えたら子育てという選択はしない」ということでした。
それはたしかにそうだと思います。
なにしろまず、育児にはお金がかかりますもの。
先日も高校入学のためにかかった費用を公開しているブログを拝見し、ヒィィとおののきました。
高校でPTA会費とか意味がわかりません(;´Д`)
世の中で子育てをしている人たちの98%くらいは、「人生最高の経験をした」と感じているのではないかと思います。
しかしこれは前述したシロクマさんのブログと同様、非常に個人的な経験であるがゆえに、不特定多数の人間が納得するようなプレゼンはほぼ不可能であろうとも思います。
どんなにホフディランのライブが楽しいと言葉で説明しても、実際見に行かなければわからないのと同じです(ホフディランのライブは楽しいっていうか笑い死ぬくらい面白いのですが)。
この「言葉で説明してもわからない体験」を今ふうに言い換えると「コト消費」ではないか?と考えました。
商品を購入する「モノ消費」ではなく、体験そのものを購入する「コト消費」。
私はエンタメ業界でせっせこと働いているのでよく見聞きするのですが、CDやDVDを1枚も持っていなくても、YouTubeでチェックして気に入ったアーティストのライブを見に行く人が増えています。
実際、パッケージの売上は赤字状態から抜け出せず、ライブ事業が年々売上を伸ばし続けています。
見たり聴いたりするものは手軽に入手できてしまうから、モノ保有への執着や願望はなく、自分がそこへ出かけていくしかない「体験」へと興味や願望の対象がシフトしているようです。
だとすると、子育てはかなりスペシャルでエキセントリックな「体験」ではないかと思うのです。
なにしろ、さっきまでこの世に存在しなかった人間が突然現れるわけですからね。
そりゃもう驚きと混乱と興奮の嵐です。
しかも、女性限定イベント「お産」という超レア体験もあるわけですから、これはやってみる価値大です。
というわけで、スペシャル体験イベント「子育て」についてプレゼンしてみようと思います。
妊娠中
これは女性限定イベントですね。
おなかがあれよあれよとふくらんで、本当に足の指が自分で見えなくなります。
妊娠中に面白かったのは、ときどきおなかのなかで「ペコ、ペコ」と定期的な間隔で振動みたいなものを感じ、先生に聞いたら「赤ちゃんがしゃっくりしてるんだよ」と教えてもらったことでした。
ニャ娘はいまでもしょっちゅうしゃっくりしています。笑
また、出産間近まで逆子状態だったのですが、ある日突然おなかのなかから「ググーッ」と力いっぱい押されるような感じがして仰天しました。
翌日検診に行くと頭が下に移動していて、あのときおなかのなかででんぐり返ししていたんだなと驚きました。
私はつわりが人並みにあり、半年くらい苦しみましたが、その間ずっとなぜか100%オレンジジュースを飲み続けていました。
オレンジジュースきらいなのに、それしか飲めなかったです。
あとはカリカリ梅。
つわりが終わったのもはっきりわかりました。
ある日突然「あっ、今日でつわり終わった」と思いました。
4月のハワイへ行ったみたいな、素晴らしく清々しい気持ちになり、その日の夕食だったぎょうざを死ぬほど食べました。
めちゃくちゃおいしかったです。
おなかがバーンと突き出したら出べそ状態になり、おへそのゴミが全部出ました。
地球外生命体みたいなものが、信じられないくらいたくさん出てきました。
これが妊娠中一番感動したかも笑
赤ちゃんが生まれたら当分ライブに行かれないと思い、ものすごいいきおいでライブに行きまくりました。
妊娠中一番見たライブは断トツでホフディラン!
この当時、ホフは毎月のようにライブやっていたんですよね。
ピロウズで新潟遠征したのもいい思い出です。
最後に見たライブはGRAPEVINEのNHKホールでした。
もう立っていられなくて、全席指定でのんびり楽しんだことをよくおぼえています。
ちなみに妊娠中に聴いた音楽をニャ娘がおぼえているなどということはいっさいなく、その音楽を好きになることもありませんでした。笑
胎教は意味ないというのが個人的な感想です。
ただ、音楽自体はものすごく好きなようで、自作の歌を毎日絶叫レベルで歌っています。
そして街なかで聴こえてくる音楽を耳にすると踊り出します。
そういう意味では、多少は影響があったのかな?
全然スピッツとか聴いてくれませんが。笑
出産
これぞ一大イベント!
とはいえ、いきなり逆説的で恐縮ですが個人的には「出産してもしなくても育児にたいした影響はない」と思っています。
分娩を経験したから母親の認識が生まれたとか母性本能がどうたらとか、そういうのはいっさいありません。
私はもともと痛みに強く、普通分娩でしたが分娩時もたいして痛いと思いませんでした。
ただ、高齢で筋力がなかったため、単純にいきむ力が足りず、なかなか赤ちゃんが出てこなかったのには参りました。
産後に教えてもらったのですが、へその緒が首にくるりと巻いていて、「ウーン」といきんで出てきても、へその緒に引っ張られておなか側に戻ってしまい、なかなか出てこなかったという事情もありました。
23時ごろ家で破水し、翌朝の6時過ぎに生まれたのでわりと普通の分娩だったと思います。
が、小さなおもしろポイントがいろいろあって、分娩しながら思わず笑ってしまうことがありました。
まず、分娩台に乗せられてから、部屋に誰ひとりいないこと。
大きな総合病院で、たくさんの妊産婦がどんどん運ばれてくるので、私のところに常駐してくれる助産師さんがいないのです。
なんだか陣痛っぽいのが短い周期で起きてきたので、「あの〜、そろそろいきんだほうがいいですか?」と質問すると、室内はシーンとしたまま。
あれ?と慌てて見回すと、部屋には私ひとりぼっちでした。
まじか。
と思いました。
このことで却って冷静になった気がします。
その後「どうですか〜?」と助産師さんが戻ってきて、「あらあら陣痛来てますね」と。笑
このあとしばらくがんばるものの、どうやら陣痛微弱とのことで急きょニャム夫が呼ばれました。
私もニャム夫もお互いに立ち会い出産は絶対NO!だったので、ニャム夫は廊下で待っていたのですが(しかもソファで寝ていたそう)、助産師さんと担当医に呼ばれて分娩室へ。
陣痛促進剤を投与するので承諾のサインを、とのことで説明を受けていました。
が、しかし。
その説明が
「陣痛促進剤のせいで子宮が激しく収縮するため、子宮破裂の可能性もあるが、それでもよいか」
というものなんです。
しかもウンウンふんばっている私の頭上でニャム夫に説明し、やはり頭上でサインしているんです。
私への説明も承諾もナシかい!
と心の中でツッコミました。
さらに、サインしたあとニャム夫はその場に放置され、部屋から出ていいのかわからないまま、結果的に立ち会いとなりました。笑
あれ〜なんか成り行きで立ち会いになってる。。。
と思いながら、途方に暮れているニャム夫を見てニヤニヤ笑いが止まりませんでした。
助産師さんも「だんなさん、奥さんの手を握ってあげてね」とか言って、いやいや立ち会いしないって事前に伝えたのに笑
しかも、手を握ってもらうより分娩台の柵につかまったほうが力を入れやすいんですよね。
なんかいろいろと、ドラマみたいな感じは全部ウソだなと思いました。
陣痛促進剤の効果はすさまじく、ガンガン陣痛の波がやってきます。
なんというか、おなかのなかで大きな波がグワーっと起きるみたいな、稲村ジェーン来た!みたいな感じです(?)。
その稲村ジェーンがまったく途切れずに波立ち続け、そのうちにようやく赤ちゃんが出てきました。
「赤ちゃん出てきましたよ!」と助産師さんに告げられ(私の股間から出ているのでわかるんですが)、赤ちゃんの産声を待っていると、これまた想像とまったく違う音が。
「ゴボボ、ゲボ」という、おぼれた人を救助したみたいな呼吸音が聞こえてきて、赤ちゃん大丈夫かいな(・・;)と不安になりました。
肺に残っている羊水を吐き出しているんでしょうが、またもやドラマうそじゃん!と思いました。
育児
ここから長い物語が始まります。
妊娠出産も人によってさまざまですが、生まれてきた子供はほんとうにそれぞれ違った個性を持ってこの世にやってきます。
ここからは、すべてのお父さんお母さんの、世界でたったひとつの物語になります。
まったくなにも知らない、真っ白のキャンバスみたいな子供と愛着を形成していくというのは、「ひとりの人間を作り上げていく」という強烈なプレッシャーもありますが、それと同時に「この世でもっとも大事な命」を養育するという経験が、自分自身の魂の救済のようでもあるのです。
子供と一緒にごはんを食べて、手をつないで歩いて、一緒に眠るという日々のなかで、しばしば子供の透きとおった目を借りて世界を見ているような疑似体験をすることがあります。
道ばたに咲く花の花弁が、夜空に浮かぶ月が、寒い冬の朝に立ち並ぶ霜柱が、世界でただひとつの宝物のように美しく輝いて見えます。
世界はこんなに素晴らしいものだったのかと、いままで私はいったいなにを見て生きてきたんだろうと、その美しさに落涙するような瞬間が突然やってきます。
こんなにも惜しみなく愛をくれる人間がいて、いくら愛をあげても尽きることなく心の奥から湧いてくることの不思議さを、6年経ったいまでも毎日かみしめています。
むしろ、年月を重ねるごとに子供への愛情は色濃くなっていきます。
私ともニャム夫ともまったく違う魂を持って生まれてきた、誰とも似ていないたったひとりの人間。
小さくて無垢な魂で、私の知らなかったことを毎日たくさん教えてくれる先生。
いくら見ていても飽きることのない、世界で一番かわいくて愛しくてあたたかくてやわらかい生き物。
すべての人が子供を愛せるかどうか、こればかりはわかりません。
もともと人間関係が苦手な人や、自身が愛着形成を幼児期にうまくできなかった人は、子供と愛着形成を築くのは難しいかもしれません。
自分で産んだ子供でも、どうしてもかわいいと思えない、愛せないという人はたくさんいますし、反対に養子でも人間同士の絆を強く紡ぐことのできる家族もたくさんいます。
だから私は、みんな絶対子供いたほうがいいよ!なんて、簡単には言えません。
でも、目の前で日々成長していく人間を、自分の人生すべてを使って育てていくという体験は、まさに人生が180度変わるようなものすごいことである、とは思います。
そして、子供と触れ合うことで、自分がこの世界でどう生きるべきか、なにをすべきか、そういうことが、ひとつの形として見えてくるようになります。
それは言い方を変えれば、「生きがい」や「社会を支える」といったことかもしれません。
私はもう自分のことはどうでもよくて、可能な限り子供のために自分の人生を使おうと思っていますし、そのために仕事をやりやすい環境に整え、できるだけ小学校へ足を運び、クラスの子供たちと毎日おしゃべりを交わしています。
通り魔犯行や自動車事故やいじめなど子供が被害者となる事件が絶えない世の中で、いったい自分になにができるかと考えたら、たいしたことはできやしないんです。
でも、たいしたことでなくても、子供と関わり交流していくなかで、きっと小さな救いや手助けや導きができるのではないかと、そんなふうに思いながら生きていきたいです。
そしてそういった「善意」のようなものが、社会を支え育てていくネジや歯車のように機能していくのではないでしょうか。
「育てにくい」「思い通りに育たない」子供の特長を見つけて伸ばす。
AIやロボットが活躍する時代に活躍する子供たちの「最先端の育児」とは
「育てにくい子は、挑発して伸ばす」
中邑賢龍:著
文芸春秋