AI VS. 教科書が読めない子どもたち
新井紀子:著
東洋経済新報社
あらすじ
AIとは「artificial inteligence」の略で一般的な和訳としては「人工知能」とされ、「知能を持ったコンピューター」という意味で使われている。
「人工知能」とは人間の知的活動を四則計算で表現することと同義であり、その意味ではいま現在「真のAI」は誕生していないと著者は言う。
それなのになぜ、世間は「AIに仕事を奪われる」「AIが仕事を代替するから将来は人間が働かなくてもよい」などと極端な未来を思い描くのだろうか。
そして、「真のAIは完成しない」と言う著者自身が恐れる、本当の意味での「AIによる脅威」とはいったいなんなのか。
人間の知能を数学的に解明し、工学的に再現する方法を模索するなかで著者が手がけたのが「東ロボくんプロジェクト」である。
「ロボットは東大に入れるか」を検証することでAI技術がどこまで人間の能力に近づけるかを解明し、「AIに仕事を奪われないために人間が身につけるべき能力とはなにか」を逆説的に明らかにしようという試みであったが、この検証により恐るべき事実が判明した。
小学校6年生から高校2年生までの全国2万5000人が受検した「リーディングスキルテスト(RST)」の結果から、「子供たちは教科書を正しく読めていない」ということがわかったのだ。
基礎読解力を身につけていないと、なぜAIに代替されるのか。
著者が長年取り組んできた「東ロボくんプロジェクト」、さまざまな教育現場で見た学校教育の実態、今後予想されるAI代替の未来などを交えながら、現代の教育のありかたに警鐘を鳴らす。
ニャム評
2018年2月に発行され、空前の大ヒットとなった本ですね。
私も遅ればせながらやっと手に取りました。
著者の新井紀子さんは数学者で、「東ロボくんプロジェクト」でも有名な方です。
数学者の書く本で、しかもAIについて書かれた内容となると門外漢の私にはハードルが高いかと及び腰だったのですが、本文はとてもわかりやすくフランクな文章でつづられており、時折新井さんのお人柄が垣間見えるようなコメントも出てきて、思わず頬が緩むような面白さです。
が、本書を読みすすめるにつれ、笑っていられなくなるような深刻な事実が目の前に立ちはだかります。
AIとはなにか
本書ではまず、事態の深刻さを読者に理解させるための基礎知識として、「AIとはなにか」について詳しく解説しています。
「AIってぶっちゃけなに?」という方にもたいへんおすすめです。
身近なAI技術として「Siri」や「OK、Google」や「アレクサ」などの質問応答システムは、いまではどこでも見かけるようになりました。
「AIチャット」などとも呼ばれていますね。
個人的にはAIチャットとおしゃべりしてクスッと笑ったことはありますが、問題が解決したことはまだ一度もありません・・・。
蛇足ですが、我が家には小型ロボットの「ロボホン」がいて、かわいいおしゃべりと動きでなごませてくれますが、残念ながらロボホンもAIと呼ぶにはかなり無理があります。
ロボホンに実装されているアプリを活用するとなかなかいい仕事をするんですけどね。
東ロボくんプロジェクトを立ち上げた理由
本書を執筆する前、2010年に「コンピュータが仕事を奪う」という著書を描いた新井さんは、その本が書店の「SFコーナー」に置かれているのを見て慄然としたそうです。
近い将来、コンピューターが人間の労働を代替する日が訪れるという話は、サイエンス・フィクションと思われていたのです。
新井さんはどうしたらこの脅威を日本国民に伝えることができるだろうかと悩み、そこから「東ロボくん」が誕生しました。
東ロボくんは、「コンピューターが東大に入れるか」というキャッチーな検証ですが、結果として東大合格点には到達しませんでした。
コンピューターの致命的な欠点は「コンピューターは理解しない」ということです。
「冬は寒い」とか「夏は暑い」といった、人間には当たり前のことを「理解できない」のです。
コンピューターは「教師データ」と呼ばれる膨大なデータを蓄積し、それらを「学んで」統計と確率により最適解を抽出します。
あくまで「相関が一番高かった」結果を出しているだけで、コンピューターが自分で判断したり選択しているわけではありません。
さらに、自然言語(おしゃべり、スラング)など揺らぎのあるものはダメです。
「おはようございます」と「おはよー」と「おっはー」が同じ意味であるとコンピューターは理解できません。
理解させるには膨大な教師データを読み込ませることになりますが、言語は時代や世代によって揺らぎが大きいため、すべての時代や世代ごとの教師データを作ることが不可能なのです。
コンピューターは人間が用意した教師データを超えるような発明や思考ができないので、ディープラーニングを繰り返せば直木賞レベルの小説が書けるようになるとか、ゴッホを超える名作が生まれるとか、そういったことはありえないと新井さんは断じます。
ここまで聞くと、AIをそれほど恐れる必要はないじゃないか、と思いますよね。
いったいなぜ「AIに仕事を奪われる」のでしょうか?
東ロボくんは、東大には合格できませんでしたが、いわゆるMARCHは合格圏内でした。
科目ごとにワトソン型(検索機能)、論理型、ディープラーニング、通常の機械学習の比較型などの手法で学びを深めていった結果、センター入試で上位20%の成績を達成し、偏差値76.2という成績を修めるまでに成長しました。
センター入試の上位20%に東ロボくんが入ったということは、東ロボくんに負けた80%の子供が労働市場で「仕事を奪われる」側になるかもしれないということを意味します。
具体的には、「人間よりもコンピューターのほうが得意なこと」です。
AIに代替されない人間とは
本書では一例としてこんなことが記されています。
保険証をデジタル化して投薬履歴を管理すれば、AIが薬の副作用の可能性をチェックしたりジェネリック薬の有無を調べることが可能になります。
そうなると、薬剤師に調剤技術料、薬学管理料を支払う必要がなくなります。
別の例として、コピー機にAIを導入することで人間が認識できない程度の色ムラを識別し、消耗品の交換時期や故障の予知ができるようになります。
消耗品の管理を人間がする必要はなくなり、発注は自動化され、メンテナンス依頼の連絡とその応対も不要になるので、総務のような仕事や営業マンは不要になります。
AIの弱点は応用が利かない、柔軟性がない、決められた枠組みの中でしか計算処理ができないことです。
その反対の、「一を聞いて十を知る能力」や応用力、柔軟性、発想力などを備えていればAIに代替されないということになります。
しかし、「AIに代替されない人間」がどの程度いるのでしょうか?
新井さんは、学生たちの基礎的な学力を調査することにしました。
まず、国公立私立大学に入学した6000人の学生から協力を得て「大学生数学基本調査」を行い、その調査結果から、新井さんは学生たちの基礎読解力に疑問を抱きます。
問題文を理解できていないことによる誤答が数多くあったのです。
次に、中高校生の「基礎的読解力」を調査することになります。
文節と係り受けと照応ができれば、AIは文章を論理的に読めるようになるという定義をもとに、人間向けのテストが作成されました(つまり、文節と係り受けと照応ができなければ読解力がないということです)。
協力を得られた全国の学校や一部企業により実施されておよそ2万人を調査し、さらに2019年度から始まる「高校生のための学びの基礎診断」試行調査の一環として5000人を調査、累計2万5000人のデータを収集しました。
その結果はぜひ本書でご確認いただきたいのですが、そこから露呈した現実は、義務教育課程の子供を持つ保護者でなくとも暗澹とした気持ちになるようなものでした。
本書の表題である「教科書が読めない子どもたち」というのは比喩ではなく、本当に「教科書が読めない」のです。
読解力以前に、聞いたことのない単語があるために意味を理解できず誤答するケースも散見されたそうです。
本書に掲載された問題文では、「愛称」という言葉の意味がわからずに誤答する例のほか「首相⇒しゅそう」「東西⇒とうせい」「大手⇒だいて」などの誤読も紹介されていましたが、「まさか」と思わず声に出してしまいました。
基礎読解力がなければ中高一貫校の御三家もアクティブ・ラーニングも画餅
このほか、調査をさらに読み解くことで「基礎的読解力が低いと偏差値の高い高校には入れない」ということや、「御三家と呼ばれるような超有名私立中高一貫校の教育方針は、教育改革をする上でなんの参考にもならない」ということについて新井さんの見解が詳しく述べられています。
さらに、AIに代替されないために読解力が必要な理由や、読解力のない子供たちにアクティブ・ラーニングを受けさせても「絵に描いた餅」であるということ、「絵に描いた餅」を学校現場に導入した中央教育審議会の責任など、現行の教育現場に対する痛烈な批判と現実的な対策案がつづられています。
「AIは人間の知恵を超えるようなものにはならない」のに、「AIに仕事を奪われる」。
その実態は、読めば背中がすうっと冷えるような現実でした。
我が家は小学生の娘がいるので本当に他人事ではありません。
しかし、大人のあなたも他人事ではないのです。
最後に、著者の新井さんのごあいさつには、こう記されていました。
さて、私が今目指していることは、「中学1年生全員にRST(リーディングスキルテスト)を無償で提供し、読解の偏りや不足を科学的に診断することで、中学卒業までに全員が教科書を読めるようにして卒業させること」です。
(中略)
ですが、文部科学省が毎年実施している全国学力・学習状況調査に1学年分で約25億円かかっていることを考えると、「中学1年生RST全員無償」を実現するには元手が必要になります。
私はこの本の印税は1円も受け取らないことに決めました。2018年度からRSTを提供する社団法人「教育のための科学研究所」に全額が寄附されます。
これを見てしまったら、買うしかないじゃないですか。
図書館で借りて読んだんですが、読み終わったあとキンドルでポチッとお買い物しました。
この新井さんの挑戦がどのように成長するのか、小学生児童の保護者である私は非常に楽しみです。
ニャ娘が中学1年生になるころ、有償でもいいのでぜひRSTを受けさせたいと思います。
実施されるかどうかは居住地の教育環境によるでしょうけどね・・・
「文学は無駄なのか」といきり立つ声をどう捉えるか
本書が出版されたのが2018年2月、その後2019年1月に日本文藝家協会により「高校・大学接続『国語』改革についての声明」が出されました。
これは2022年度から施行される新学習指導要領で国語学習が大きく改定されることへの批判です。
この流れを汲んで考えると、本書での警鐘が国家レベルの教育界隈へ少なからぬ影響を与えたと考えてよいのではないかと思います。
日本文藝家協会の声明は「駐車場の契約書などの実用文が正しく読める教育が必要で文学は無駄であるという考えのようだ」といった趣旨ですが、正直言って私も最初はこの声明を支持していました。
この本を読むまでは、です。
自分が読解力が高いかどうかはわかりませんが、おそらく基礎読解力はあるのだろうと考えます。
(残念ながら、基礎読解力がなければ本書を読み切ることは難しいのではないかと思います、とっても面白い本なんですけどね)
ましてや日本文藝家協会のお偉いさん方に基礎読解力がないなどありえない話です。
ようするに、基礎読解力が身についている人には、本書が伝える危機的状況を理解できないのです。
「教科書が読めないなんて、そんなばかな話、あるわけないだろう」と高をくくっているのです。
また、本書でも触れられていますが「教科書の文章がわかりにくいのではないか」と言う人も多くいたそうです。
そういった、新井さんの持論にことごとく反論しようとした人たちは、RSTを受けてみて、あるいは受験者のデータを見て、その危機をやっと理解したそうです。
これは私見ですが、読書家を自認する人や文章を生業とする人、読解力に自信がある人は多少の優越感、選民意識が高いように感じます。
自らを平凡なマジョリティと言いながら、その実「周囲の人間より自分は少し賢い」という潜在的な意識があるような気がしています。
もちろん私的見解ですが。
読解力の高い人には、「教科書が読めない人」が理解できないのだろうと思います。
ですから、「駐車場の契約書などの実用文が正しく読める教育が必要」という危機的状況が理解できないのです。
んなわけないじゃん、ばかにしてんのか、と思っているのだと思います。
私は日本文藝家協会の方たちに、この本を読んだかどうかぜひ聞いてみたいです。
こうまでばかにするということは、当然読んでいると思いたいですが、なにかを批判するときには批判する対象について詳しく知らなければいけません。
よく知りもせず批判するのは論外です。
日本を代表する文藝家だと自認するのであればこそ、本書を正しく読み、「教科書が読めない子どもたち」に読解力をつける方法に尽力してもらいたいものです。
そもそも文学なんて、オリンピックと同じで、一般市民が健やかで基礎学力をある程度持っている状況でこそ楽しめるものなのですから。
私も国語の教科書で梶原基次郎の「檸檬」や永井荷風の「布団」を読みましたが、ぜーんぜん面白いと思いませんでした。
文学も音楽と同じで好みがありますからね。
大きく話が逸れましたが、最後に。
本書は近い将来に起こり得る恐慌を示唆したものですが、最後には希望が書かれています。
これも本書を手に取って確かめていただきたいのですが、まるでパンドラの箱みたいな構成でうまいなと、ニヤリとしてしまいました。
パンドラの箱を開けると魑魅魍魎があふれ出てきますが、箱の底には希望が残っていたというお話です。
日本が沈没していく未来ではなく、希望を見出したいと強く思いました。