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つぶやき

児童虐待が社会問題として取り上げられるとき、加虐者や公的機関を罵り責めることが解決にはならない。虐待を根絶するにはどうすべきか私たちが学ぶ必要があります

Hello world!
あなたの心のおとなりさん、ニャムレット(@nyamletblog)です。

世の中の事象はつねに、表と裏があります。
表しかないものはこの世に存在しません。
しかし、裏を見ようとするには、ただ目に映る事象だけを追っていては永久に見えないのです。
月がいつも「こちら側」しか見えないように。

10歳の女児を虐待死させた両親のニュースが連日報道されています。
このニュースに心を痛めている人は少なくないと想像します。
これについて有名無名、さまざまな人が思考し、怒り、悲しみ、絶望をおぼえています。

虐待のニュースが報道されるたびに街では使い古された同じ言葉が飛び交います。
学校は、教育委員会はなにをしていたのか。
児童相談所はなぜ踏み込まなかったのか。
近所の人は、親戚は気づかなかったのか。
しかし、事象だけを見ればおそらく、彼女の周囲にいた人間は「気づかなかった」のでしょう。
まさか、命を永遠に奪われるようなことになるとは。
そして、真実に気づいてもらえなかった彼女は、短い生涯を閉じることになりました。

劇作家の鴻上尚史さんがこう言っていました。

人は結局、自分が実体験したことのない出来事を真実のように想像することはできないのだと思います。
学校の先生や教育委員会は(対応はすこぶるまずかっただろうけれど)虐待の専門家ではない。
児童相談所の職員は虐待の専門家ではあるだろうけれど、「今その場で虐待されている子」本人ではない。
近所の人や親戚など論外です。
基本的には家庭内の出来事であり、周囲の人間が責めを負うようなことではありません。

私は単純に個人的興味で虐待や幼児教育関連の書籍を読むことが多いですが、そこで素人なりに感じるのは「結局、人は自分が経験したことしか知らないし、それ以外のことを知るのは難しい」ということです。
虐待関連の書籍を読んでも、加虐者の言動を理解したり想像することは大変難しいです。
しかし、加虐者は心のない、または良心のない、悪意に満ちた人間なのか。
私たちはそれについて深く考えねばならないのではないでしょうか。

私は想像でなにかを語るのが好きではありません。
だから、テレビのコメンテーターとか坂〇忍的な人が一番きらいなのですが、残念ながら世間ではそれが一般的です。
つまり、よく知らないけれど、その事象の一部を見聞きして、自分の感じたことを垂れ流す。
「どうしたらいいんでしょう」と眉根を寄せて回答を濁し、数分後にはグルメ話に興じている、そんな人たちにいったいなにがわかるというのだろうと憤りをおぼえます。

他者を批判したり攻撃するのは快感が伴うのだと思います。
だから人は、気軽に「誰か」の悪口を言ったり批判したりする。
虐待事件が起きたときなど、「悪者」が登場したときは格好の的となります。
わかりやすい「悪」であり、どんなに罵っても自分へ批判が返ってこないからです。
テレビでも、柳の下のどじょうをつかまえようと出演者たちが醜く争っている姿が連日映し出されています(実際にはテレビは見ないので知らないですけどね)。

こうやって、「虐待をするような人間は許すな!」と言う人たちは、では、加虐者がどんな人間で、これまでどのように生きてきて、どのように養育されてきたのか、どこまで知っているのでしょうか。
加虐者について語る言葉は、なにに裏付けされているのでしょうか。
あの父親の幼なじみだった?
親戚だった?
おそらく、事件が発覚するまで、見たことも聞いたこともない他人のはずです。
彼がいったいどのように生きてきて、自分の子供を殺すような出来事になってしまったのか、その原因を知る人はどのくらいいるのでしょうか。
仮に、彼自身も想像を絶する虐待を養育者から受けていたとしたら?

加虐者のプライバシーを掘り下げるとか、加虐者をかばうという話ではありません。
彼が被虐待者だったかどうかも私は知りません。
しかし、虐待が明るみになったとき、語るべき言葉は加虐者への罵りが最善でしょうか。
あいつは悪い奴だと罵り、公的機関へ文句を言うだけで、それで世界から虐待はなくなるのでしょうか。
あなたはどう思いますか?
加虐者を罵ることがしたいのか、虐待をなくしたいのか、まずはここを整理しなければなりません。
そしてきっと、これを読んでくれているあなたは、後者であると私は信じます。

忌まわしく悲しい出来事について、烈火のごとく怒り、涙が枯れるほど泣き、その
罪を断じる権利を有するのは、小さな命を奪われた子供と、虐待を受けているすべての子供たちだけです。
私たちにできることは絶望し、失われた尊い命の冥福を心から祈ることです。
そして、その絶望を断ち切るためには、社会全体で学ぶべきではないかと思います。
虐待とはなにかについて、虐待の成り立ちについて、そして「自分以外の他者」について。

まだ私が若かったころ、母と話したことを思い出します。
世の中にあふれる絶望や悪、苦しみを、知る必要があるのだろうか。
見聞きするだけでもおぞましく、吐き気をもよおしたり情緒が不安定になるようなおそろしいことが世の中には実在します。
悪をあえて知る必要はあるのだろうか、知らないほうが幸せということもあるのではないか。
若い私はそう思っていました。
そんな私に母は
「知らなくていいことなんてこの世にないんだよ。知らなかったら変えることもできないでしょう」
と言いました。

知るということはときに痛みを伴い、不快さを得ることでもあります。
知れば責任が生まれるかもしれないし、いまの楽で安定した暮らしが変わってしまうかもしれないし、面倒なことも関わってくるかもしれない。
知らないということは楽だし、心地いいのです。
でも、私たちは、社会的動物として生きています。
他の動物にはない理性を基準として、他者と関わることで命をつないでいく唯一の動物です。
いまは幸せに暮らしているかもしれませんが、いつか困難が起きたとき、誰かの助けを必要とするかもしれません。
だから、誰かが助けを求めているときに自分がどうすべきなのかを知っておくのは、生きる上で有効なことなのです。

日本では虐待自体が身近に感じられる環境がなく(それはありがたいことでもありますが)、虐待が起きたときの社会の適切な対応というのが整っていないように感じます。
ケースごとに違うので、ルールだけですべてのことを包括的に対応できるとは思えませんが、社会全体、つまり私たちひとりひとりの意識が変わるだけでも、なにか前進できるのではないかと、そんな希望を捨てずにいたいのです。

虐待と似た事象にいじめがあります。
私が高校生のころにクラス内でいじめがありました。
私自身はそもそもクラスに友人がおらず、ひとりぼっちで生きていたので、その事象に立ち入ることもできませんでしたが、そのとき一番衝撃だったのは、いじめている子たち(女子でした)がみんな、平凡で目立たない「普通の子」だったことです。
パッとしない、地味な子たちのグループが、さらに地味で要領のよくない女子をいじめていて、どういうシチュエーションだったかは知りませんが放課後に土下座させているのを見てしまい、そのときの彼女たちの言葉が忘れられずにいます。
その場に入って止めなかったのかとお叱りを受けるかもしれませんが、私自身もある意味で村八分なので、やはりそこに割って入ることはできませんでした。
でも、もう30年近く経っても、ときどき思い出してしまいます。
誰かを追い詰め、他人をときに死に追いやるような人は、どこにでもいる「普通の人」なんだと、「悪」と呼ばれるものの正体を見たようなショックを受けました。

虐待やいじめ、自分以外の人間の人権を奪い害を与えるということには、目に見えるだけではないさまざまな要因があります。
高齢者のうつが、幼児期に受けた虐待によるものだという場合もあるのです。
物事の裏側を見るには、知見を広める必要があります。
人間として社会で生きるかぎり、「自分には関係ない」ということはありません。
子供がいないから虐待問題は関係ない、ということではないのです。
この先の人生で、被虐待者が配偶者となり、その苦しみを共有することもあるかもしれません。
それこそ、となりの家の子供が虐待を受けているかもしれない、という事態が起きるかもしれません。

あの父親と同じことを自分自身がするかもしれないという可能性を完全に否定できる人間は存在しません。
あの父親だって、子供を殺すために妻と結婚し、子をもうけたわけではないはずです。
きっと、幸せになることを夢見て家族を作ったのだろうと、私は想像します。
そしてなぜこうなってしまったのかは、憶測で語ることは許されず、その理論を社会全体で学ぶべきだと強く感じます。

ひとりひとりが他者を知り、手を取り合い、ほんの少しの助け合いをすることで、世界は確実に変化するという希望的観測を、私たちは持ち続けていかなければと思うのです。