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BOOK

ノーベル文学賞作家が描く「偉大なる英国」の輝きとほろ苦い思い出。ときにはこうして過去を振り返る時間があってもいい

日の名残り
カズオ・イシグロ︰著
土屋政男︰訳
早川書房

あらすじ

「偉大なるブリテン」と呼ばれた時代、英国の名家ダーリントン卿の屋敷で勤勉な執事として長年働いてきたスティーブンス。
ダーリントン卿から新しい主・ファラディへと屋敷が譲渡されてからも、スティーブンスは執事としての務めを果たしていた。
ある日、ファラディから休暇を取って国内を旅してまわることを勧められ、英国西部をめぐる数日間の旅へ出ることに。
西部地方へと旅することを思いたったのは、一通の手紙がきっかけだった。
かつてダーリントン・ホールへともに仕えた女中頭のミス・ケントンから近況を伝える手紙を受け取ったスティーブンスは、旅の終わりにミス・ケントンを訪ねてみることにする。

19世紀初頭の階級社会全盛であった英国を舞台に、華麗な社交界の表と裏、第一次大戦から第二次大戦へと移りゆく世界情勢下での英国の動き、大邸宅に仕える者たちの心の機微が彩り豊かに描かれている。
ともすれば厳めしい物語になりがちな題材を、イシグロの美しく繊細な筆致で一幅の名画のごとく仕上げている。
英国内文学賞の最高峰、ブッカー賞を受賞し、映画化もされた代表作。

ニャム評

ブッカー賞って、どのくらい権威のある賞なんだろうと思ってウィキってみました。

ブッカー賞
ブッカー賞(ブッカーしょう)はイギリスの文学賞。世界的に権威のある文学賞の一つ。
Wikipedia

選考者が毎年変わるという厳格なルールがあるそうで、それが高い評価を得る要因のひとつとなっているそうです。
日本の文学賞は毎度おなじみの顔ぶればかりですから、ブッカー賞のような選考基準はとてもいいですね。
あらゆる面で公平であると感じます。

さて、ブッカー賞受賞作でありますが、ご存じのようにノーベル文学賞受賞で一躍時の人となったカズオ・イシグロ氏の代表作です。
私がイシグロ氏の著作を初めて手にしたのは「私を離さないで」でした。
「私を離さないで」は日本でもドラマ化され、大変な話題を集めた衝撃作です。
私はドラマ化の前に読んだので、ネタばれされることもなく、とくに先入観もなく読んでいたため、途中で物語の仕掛けが判明したときには度肝を抜かれました。
ノーベル文学賞受賞時にもテレビでいっせいにネタばれ合戦をしていたので、どういう内容なのか知ってしまった方も多いかと思いますが、内容を知らないという方は大変ラッキーなので、ぜひ予備知識ゼロで読んで、ものすごいショックを受けてください。

さて、「日の名残り」の原題は「The remains of the Day」、そのままの邦題ですね。
物語の香りが立ちのぼってくるような、簡素にして過不足のない秀逸なタイトルだと思います。
少し前の輝きをいとおしむような、目を細めて大切な過去を振り返るような、そんな響きがあります。

主人公は執事のスティーブンス。
彼は英国で名高いダーリントン・ホールに長く仕えてきました。
主のダーリントン卿を尊敬し、忠心しながら彼のすべてを支えるのがスティーブンスの仕事であり、誇りでもありました。
ダーリントン・ホールとともに長い年月を過ごし、主も変わったある日、新しい主人であるアメリカ人の富豪、ファラディにこんなことを言われるのです。

「年中こういう大きな家に閉じ籠って、ひとに仕えてばかりで、君らはせっかくのこの美しい国をいつ見て歩くんだい、自分の国なのにさ?」

いかにもアメリカ人らしい考えで、自分の国の美しさを見てまわることを勧めます。
スティーブンスはザックリ言ってクソ真面目な仕事人間なので、最初はその提案をとても受け入れられずにいたのですが、あることをきっかけに旅へ出てみようと思い始めます。
そのきっかけを作ったのは、過去にダーリントン・ホールでともに働いていたミス・ケントンからの手紙でした。

ミス・ケントンは非常に有能な女中頭で、スティーブンスとともにダーリントン・ホールの雇用人たちを取り仕切ってきました。
スティーブンスにとってミス・ケントンと過ごした日々は、輝かしいダーリントン・ホールの歴史でもあったのです。
そんな彼女がダーリントン・ホールを去り、コーンウォールへと嫁いでから長い時が流れました。
まったく久しぶりに突然届いた手紙を読んだスティーブンスは、ミス・ケントンに会いに行くことを思い立ちます。
ファラディの厚意をありがたく受け、車を借りて(行く先々で「素晴らしい」と絶賛されるフォード車)西部地方へと旅を進めていきます。
その旅の日記のように、一日ごとにスティーブンスの回想が綴られていきます。

スティーブンスが尊敬してやまなかったダーリントン卿は、英国の爵位を持つ紳士で、国内外の政治を動かすほどの力を持つ人物でした。
第二次大戦を目前にダーリントン・ホールで繰り広げられる駆け引きの数々を、スティーブンスは執事という立場で支えてきた強い誇りがありました。
しかしダーリントン卿はナチスドイツの真実の顔を見抜くことができず、英国のためと信じてナチスと積極的に関わった結果、英国内での威厳と信用を失うことになります。
スティーブンスはダーリントン卿を最後まで崇敬していましたが、旅の途中で在りし日の栄華を思い返すごとに、やがてあることに気づきます。
ダーリントン卿の行いを自分は尊敬し、信じていたつもりだったが、それはダーリントン卿のすることを盲目的に追従していただけで、自分自身で考えるということを放棄していたのではないか・・・。
そしてそれは、ミス・ケントンとの日々にも重なっていきます。
ミス・ケントンが時おり伝えようとしていた大切なことを、スティーブンスはきちんと向き合おうとはしませんでした。
タイミングが悪いのか、スティーブンスが女心に疎すぎたのか、いわゆる恋愛に関することには、とにかく読んでいてイラッとするほど最悪な対応をします。
これだけミス・ケントンがアピっているのにスルーしたら、そりゃあ腹いせに別の男と結婚するに決まってるわ、と呆れるほどのうすのろ鈍ちん野郎です(失礼)。

西部地方を旅しながら、様々な思いが去来し、やがてミス・ケントンの暮らすコーンウォールへと到着します。
ミス・ケントンと再会を果たしたスティーブンスは、物語の最後に海辺の桟橋を訪れます。
ぼんやりと海を見ていたスティーブンスは、地元に住む見知らぬ男と他愛のない会話を交わしますが、そこで男に言われた言葉が心に残ります。

「いいかい、いつも後ろを振り向いていちゃいかんのだ。(中略)何だって? 昔ほどうまく仕事ができない? みんな同じさ。いつかは休むときが来るんだよ」

そして男は、こう言葉を締めくくります。

人生、楽しまなくっちゃ。
夕方が一日でいちばんいい時間なんだ。
脚を伸ばして、のんびりするのさ。
夕方がいちばんいい。わしはそう思う。
みんなにも尋ねてごらんよ。
夕方が一日でいちばんいい時間だって言うよ。

スティーブンスの長い半生と、その間に起きた英国の移ろいを描いた物語は、海へと日が沈み、美しい夕暮れを迎える時間で幕を下ろします。
生真面目な執事のめそめそした回顧録でもありますが、気品に満ちた文章がこの作品を美しく装飾することで、なんともいえない満ち足りた読後感を与えてくれます。
この作品のもうひとつの素晴らしさはやはり翻訳にあると言っていいでしょう。
この流麗な表現はいったい、どんな原文であったのだろうと思わせる、素晴らしい文に触れることができます。
美しい文章に触れるのも読書の醍醐味といえます。
激しい時代を生き抜いたひとりの執事のお話ですが、ほろ苦いせつなさを味わえる大人向けの物語でした。