新版 動的平衡ダイアローグ 9人の先駆者と織りなす「知の対話集」
福岡伸一:著
小学館新書
概要
2014年に木楽舎より刊行された「動的平衡ダイアローグ」を新書化。
「一個の細胞のなかにある生命は『境界線上の動き』にある」とし、私たちの体は分子レベルにおいてつねに流動しており、高速で入れ替わる「流れ」そのものが生であると著者は掲げる。
生命が秩序と破壊を同時に行い続け、それが絶え間なく流れることを「動的平衡」と表し、そのコンセプトに賛同した各界の先駆者たちと語り合う対談集。
新書化にあたり小泉今日子との対談を新たに収録している。
ニャム評
読書家の雄、しろくまのほんさんのご推薦をいただいて本書を手に取りました。
しろくまさんにお勧めいただいた本
「動的平衡ダイアローグ」
福岡伸一:著カズオ・イシグロとの対談目当てで手に取りました
最初の数ページをつまみ食いしただけで
もう胸がいっぱいになるようなやりとりが広がっていました
しろくまさんありがとう✨「わたしを離さないで」が映画化されていたことを知らなかったので
どこか時間を作って見たいなと思いますゆっくり読書を楽しみたいけど
なぜか我が家で断捨離祭りが始まってしまったので💦
本を読むような環境が整うのか🥺本を開くのが当たり前だった日々が宝物のように思えます
若者のみなさん
本はいつでも読めるものではありません
読めるときに読んでおけ!— ニャムレット*おしゃべり好きの店長 (@nyamlet.bsky.social) Apr 21, 2024 at 8:23
分子生物学者である福岡伸一さんの著書は読んだことがないのですが、カズオ・イシグロとの対談が収録されていたのでそれ目当ての購入です。
その他の対談はのちほどのお楽しみとして、まっさきにイシグロ氏との対談を開きました。
まず、ふたりで撮った写真がとても素晴らしいです。
章の扉に掲載されていますが、美しいシルエットで好感の持てるポートレートでした。
まず始めに「わたしを離さないで」の映画についての話があり、さすが読者を引き込むのがうまいなと感心しました。
カズオ・イシグロの著書は読んだことがないという人でも、「わたしを離さないで」ならなんとなく聞いたことがある、という方は多いのではないでしょうか。
日本でもドラマ化されて話題になった記憶があります。
福岡さんが小説の映画化の難しさについて触れ、そこでイシグロさんが語った「鑑賞する側も、洗練された観方をまだ身につけていないのかもしれません」という一言に考えさせられました。
このあと、「文学は科学を凌駕する」という話題になります。
福岡さんは「科学は『How(どのように)』に対する解を提示することは可能だが、『Why(なぜ)』という問いへの説明ができない」と言います。
なぜ我々は存在するのか、なぜ生きているのか、そういった根源的な問いに対する答えを解明することはできないと。
ここで言う「文学」とは「哲学」の意を含んでいます。
古代ギリシャにおいて科学と哲学は分離しておらず、哲学を追及することは科学を研究することを含んでいたという話や、科学が世界のありようを読み解いたのに対し、文学が人間の核ともいえる感情の発露を読者に問いかけるといった興味深い話題が繰り広げられます。
さらに「動的平衡」をテーマとした「全体としては変わらないがそれはつねに入れ替わって新しくなっている」という話題になります。
学校は数年で生徒がすべて入れ替わるが学校そのものは変化しない、というのが「動的平衡」です。
このあたりは当然ながら実際に読むのがもっとも理解できるかと思いますが、たとえばニャムレットというひとりの人間が存在し、その存在は犬山という人物に変わることはあり得ないけれど、ニャムレットの全体を構成する分子はつねに流動的に入れ替わり、ある時点においてはまったく違う新しい人間になっているというような話です。
ここが本章のメインテーマですね。
対談のなかでイシグロさんが「ヒストリー・オブ・バイオレンス」という映画に触れる場面があります。
デイビッド・クローネンバーグ監督によるスリラーで、善良な主人公がある事件を機に豹変するという内容です。
詳しく知りたい方は調べていただくとして、私は「心臓を貫かれて」という手記を思い出しました。
アメリカを震撼させた凶悪な殺人犯の弟が、兄の生涯(つまり自身の家族の歴史)を綴ったノンフィクションです。
村上春樹が翻訳し、そこに興味を持って読みましたが救いのない苦しい話でした。
人は人として生まれたのち、取り込み続けるものによって善にも悪にもなり得るという身も蓋もない話なのですが、「生まれたときから悪人だったわけではない」ということを深く知ることで他者への理解や歩み寄りを少しでも可能にできるのではないかと思っています。
たとえば「子供を虐待した親が逮捕された」ニュースを見て、人はこう思います。
「最低な人間だ」と。
では、その被告は生まれたときから悪人だったのでしょうか。
彼もまた虐待を受けていたとしたら、そのことを知っても「最低な人間だ」と一蹴できるでしょうか。
「つねに流れ続け、入れ替わり続けることで新しくなる」動的平衡について、深く考えてみることでまた新しいものが取り込まれ、昨日の自分とは違う自分になっているのかもしれない。
そんなお話でした。